昭和47年2月1日 月次祭
中村良一
「この世をば、わが世とぞおもう、望月の、かけたることも なしと思へば」と。これは、あー、たしか、藤原道長の歌であったと思います。えー、藤原家は、道長、こういう歌を作らせて頂いて、もう、まもなく、衰微の一途をたどったんですね。この世をば、わが世とぞおもう、望月の、かけたることも なしと思へばと、いわゆる、権力ほしいままに出来る。自分の意のごとくならざることなし。もう、そういうのでございましょうね。それを、望月に例えた。真ん丸いお月様に例えた。ね。ほんとにその、望月のかけたることもなしと思えば、私は、世界一の幸せ者だというわけでございます。私は、んー、そういう心の状態が、あー、別の意味においてです、ね。その、別な意味というのは、信心を頂かせていただいてです。信心から生まれてくるところの、こういう歌が詠めれるようになったら最高だと思いますね。この世をば、わが世とぞおもう、望月の、かけたることも なしと思へば。もう、有り難うして、有り難うして、勿体のうて、勿体のうしてという事です。これは、我力じゃない、人間の力ではない、ね。自分の権力とか、金力に物を言わせて、ならざることなしと言うのではない。御神徳を頂いて、神様のご信任を熱く頂いて、そしてそこに、自分が、おかげを頂いておるその事がです。それこそ、必要なものが必要に応じて頂けれるという、ね。私は、信心と、信心でない違いを、そこに感じるのです。ね。お互いが、いっちょ、うんと儲け出して、ね。良い着物も着たい、良いお家にも住みたい、良いものも食べたい、この世の幸せという幸せを、本当に味わいたいと思うて、一生懸命精進努力を致します。勉強を致します。ね。そして、例えば、それは、いろんな意味においてです。藤原道長ではないですけれども、私のような幸せものがあるだろうかと言うほどしのことになってまいりましたら、それを頂点として、衰微の一途をたどらせていただくのが、これは、信心のないものの姿なのです。ね。ところが、同じ、例えば、その、歌でありましてもです。ね。信心させていただいて、こういう歌が詠めれるようになったら、それから、もう、いよいよ、無尽蔵に、限りなく有難くなって行くことでしょう。また、限りなく、幸せは、それについてくる。それこそ、一年勝り、代勝りのおかげが受けられるようになる。そこんところをね。どうでも信心しなければいけないことが分かりますでしょう。これは、信心を抜きにしてです。どういう、例えば、ほんなら、億万長者になりましても、そして、只今のような、あー、歌が詠えるようになりましても、読めれるようになりましても、ね。その時にはもうすでに、頂点であって、もうそこから衰微をたどるほかはないのが、私は人間の知恵とか、力を持ってなし得た幸せだ、作り得た幸せだと思うです。どこまでもね。神様が下さるもの、神様が与えてくださるもの、恵まれるものでなからなければならないという事なんです。ね。この世をば、わが世とぞおもうという、その辺はちょっと、まあ、あー、なんですけれども、まああの、歌の文句にもございますでしょう、ね。えー、世界は二人のためにありといったような、ね。信心させて頂いておるとです。もう、世界中の隅々のことに至るまでです、ね。私一人のために、世界が廻っているんだ、動いておるんだ。天地が、私一人のために、こういう働きをしてくださるんだという実感というものは、段々伴うて来るものです。ね。親鸞上人様が、ね。世の中の全てのことが、この親鸞一人のためにあるのだと仰った。ね。だから、勿論、その中には、浮きこと、辛いこと、ね。いわゆる。また、嬉しいこと、悲しいこと、様々でございましょうけれども、ね。そういう意味に、そこのところを頂かなきゃいけないと思う。ね。いわゆる、天地の動きがです。私一人のために廻っておるんだというのです。大きい、ね。ですから、それほどしのことが分からせて頂くのですから、それほどしの喜び、神様が、私一人のためにお働き下さってあるんだという実感なんです。私は、私のような幸せ者があるだろうかと。もう、私は、世界一幸せ者ですというようなことを言うのは、そういう事だと思う。ね。それは、そこにも世界一があって良いんです。そこにも、どこにも、私が、この世で一番の幸せ者だろうと思われるような人が、沢山あっていいのです。けれども、私は、私が世界一だと思うほどしの、ね。おかげを頂かなきゃならん。それも、私がのし上がった。私が力で出来上がった。私の金力、権力をもってして、なんでもなされん事はないというのであってはです。それはもう、そこを頂点として、衰微するほかにはないのです。いわゆる、長者三代無しという、理の通りであります。信心はここからが、ここ、ここからという、ね。えー、いや、根本的に違うんですけれども、ね。段々おかげを頂かせてもらいましてです。ね。おかげの中に浸らせていただいてです、その実感が有難い。私のような幸せなものがあるだろうかというような、有難い、いわゆる、お恵みの中に浸らせて頂けれるという事がです。段々大きくなっていって、百円の、その日暮ができるように、ほんとに神様の、ね。お働きの間違いないことよ。千円のその日暮が出来るようになる。一万円の、その日暮ができるようになる。ね。信心の進展と共にです。いわゆる、私が受けていくところのおかげの場というものは、段々広がっていく、大きゅうなって行く。しかも、一年勝り、代勝りにおかげを頂いていけれる。ね。かと思うたら、ま、何と有難いことかという事になるのでございます。皆さん、我情我欲は、私が力で、私が働いたから、神様からお手伝いして貰うて、そして、おかげを頂いたぐらいのこっじゃいけません。神様が先頭に立って働いて下さり、ね。その神様のおかげに、こちらがついて行くというほどしのおかげになってこなければ、ね。そういう事にはなって来ないと思う。
今日、私、ある方のお届けをさせていただいておりましたら、んー、こういう事を、まあ、ある方というよりも、先日から、若先生が永瀬さんところの、ご長女である順子さんが、あー、この頃、ここで結婚式をされました。今日、新郎新婦、新婚旅行から帰ってまいりました。お届けに出てきたんですけれど、まあ、本当に幸せそうで、もう本当に、こんなに有難い、目出度いことはない。この人達に、何かはなむけをしたいと言うので、あの、御神米入れに、御神米を入れて贈りたいというわけで、私に一筆、何か、御教えを頂いてくれと、こう言うて持って来ました。それで私は、それを、あー、嫁の美子さんが、若先生がこう言いよりますと言うて、持ってまいりましたから、あの、御祈念させて頂いて、そしたら、神愛とお頂いた。神愛とは神の愛ではなく、真の愛と頂いた。真の愛、ね。そして、御理解にです。ね。例えば、その、夫婦愛なら、夫婦愛が強ければ強いほど、不平不足は、それに伴うものだという御理解でした。ね。主人を愛すれば愛するほど、家内を愛すれば愛するほど、ね。それは、二人はね、愛し合って、一ところにおる時には、もう、それこそ世界は、私共二人のためにあるようにございましょうけれども、例えば、主人が外へ出ますと、帰りが遅かった。そすと、もう不安になってくる。心配になってくる。ひょっとして、良いかつどんが出来とるとじゃなかじゃろかという不安まで出来てくる。必ず、いや、ほんと、絶対、ね。それは、愛すれば愛するほどなんです。愛さなかったら、もう、あげんとは帰ってこんほうが良かちいうのです。はっははは、(一同笑い)せからしか。けども、その愛が強ければ強いほど、不平不足というものは生まれてくる。そこから、愛の冷却が始まると頂きました。愛の、そこからです、夫婦別れしなきゃならんような、いわば、事にまでなってくるんです、愛が強いから。ね。今日もその、新婚旅行から、二人が帰って見えて、お届けに出て見えて、それから、その事を神様にお礼を申し上げておりましたら、頂く事がね、私が、東京に行ったときにあの、何とか、何とかホテルでしたかね、何とかグランドホテル、え、ニューオオタニかね。もう、それこそ、ひと部屋が五万円、一晩、というよな部屋に家内と二人泊まらせていただいた。もう、たまがってしまった。もう、ピンからキリまであるもんだと。そういう、例えば、素晴らしい、何十階かあるところの、一番上にある日本間なんですよね。そういう雰囲気の中からですね。ストーンと、何十階下の、まあ、普通、これはまあ、ホテルじゃない、旅館というほうが本当でしょうね。の、しかもそこは、昔のあれで言うならば、あの、行灯部屋といったようなところに落ちていくところを頂いた。いわば、もう、最高の部屋におらせていただいた、ね。これが、真愛、真愛を悟らせてもらって、真愛の中にあるおかげを頂けば、必ず、こういうおかげを受けられる。最高のおかげを受けられるわけです。真愛。けれども、ただ、夫婦愛と言うても、やはり、色々な愛がある。言うなら、性愛なら性愛だけによって結ばれておるとか、仲が良かというのであったら、そういう、性愛的なものでの愛はね、それこそ、月の差し込むあばら家でも、主と二人でおればという歌がありますけれども、それは、月の差し込むようなあばら家であっても、ね。主は庭で縄仕事、私はそばで、縫い物でもしておる。いかにも、幸せそのものですけれども、それは、性愛があるからこそ、もう、主のそばにおれば幸せで、満足感で一杯だというものなんです。ね。けれども、金光様のご信心は、そういうね。あばら家に住んでおって、ね。月の差し込むようなあばら家に住んでおってです。ただ、主と二人、べたべたしとれば、それで幸せといったような事じゃ出来んのです。仲の良いことは、いかにも良いけれども、それが、段々浄化されて真愛になっていかなければならない。例えば、主人の帰りが遅かっても、それが信じれれる私なんです。お互いが、ね。夫婦、それこそ、相信じれれるところの愛でなからなければならないというのである。ね。その真愛をもってして、初めて、ね。神様の、いわば、最高のおかげ、しかもこれは、限りがないところのおかげを頂いていくことの出来る。真愛を頂き、真愛を悟らせて貰うての、信心でなからなければならない。ただ、普通、人間愛、親子の愛というのも、ね。それはただ、親子の凡情と。凡情が、ただ親が、子がと言っておるのではつまらんと。ね。寒いかと。寒いならば、ね。さあ、綿入れをまいっちょ着なさい。さあ、暖房も入れてやろうといったような愛ではなくてです。寒いならばです、いっちょ、表ば一回りして来いと、ね。ひと運動して来いと、言うような愛であってこそ、私は真愛だと思うのです。信心から生まれてくる愛は全てその愛です。ね。そういう愛の中に浸らせていただいて、初めて、有難い、勿体ないという心が、いよいよ、強うなってくる。皆さんの、今日の、手元にお配りしました、現金光様の、この年頭に、ラジオ放送なさいました内容がございます。そのなかに、んー、当たり前のこと、普段のことが、当たり前のことになってはいけませんと書いてある。当たり前のことの中にです。いうなら、神愛を悟れというわけであります。当たり前のことの世の中にです。限りない神様のお恵みが、遍満しておるのであるから、ね。そこのところを悟らせていただいて、ね。日々、感謝の生活をさせて頂けというわけであります。もう、当たり前のことが、当たり前になったら、もうおしまいだと。ところがです、なるほど、そうなのですけれども、ね。私は、やはりその、当たり前のことがです。ね。当たり前どころかね。普通、当たり前以下と思われるような難儀の中にあっても、そこに、神愛を悟らせて貰えれるというところに、御道の信心があるのです。だから、信心が深まっていく、信心が出来て行くという事は、あたーりまえの事の中に、もう、それこそ、千も万もの感謝の心がわいてくるというのが信心なんです。それが、稽古なんです。湧いて来るんです。
今日、夕食をさせていただいておりました。今日は、湯豆腐を家内が作ってくれておりました。それこそ、くらくら、たぎりよる。湯玉が出るごたる。あーこりゃ、湯豆腐で、今日は、あっは、そして、こうお箸を入れて頂いたところが、中が、豆腐の芯が冷たかっ た。湯だけがぐらぐらしておる。はあ、ぐらぐら。はー、中の豆腐が冷たかった。と言うようなわけなんです。で、こら、せっかくの湯豆腐が、中が冷たかったんじゃ、。だから、ほんなら、ま一遍、火を入れてこうというわけです。それから、まあ、好きですからもう、ほんな、いち豆腐だけでしたけれども頂いた。はー、美味しかった。もう、どれだけ有難いと言うたか、美味しいちいうたか分からんぐらい。最後には、その、湯豆腐が、昆布だしやらがとってありますから、最後は全部ご飯にかけましてから、食塩か何かをちょっと落として、そして頂いて、まあ、美味しい、美味しい、ま、こげな美味しかものはなかといって頂きますもんですから、そばで、おかゆをしよった愛子が、そげんどう、本当に美味しかつですか、私ち言うきん、茶碗ばそのまま、私がやりよる。味を見ながら食べてみよる。「本当にお父さんばっかりは、喜び上手ですね」ち言うもん。「なしてや」「そげん美味しゅうなか」ち言うけん。(一同笑い)ね。それだけ違うんです。信心、その信心の内容がね。それこそ、当たり前の味なんです。そうですよね、湯豆腐をとった後の汁です。普通のところは捨てるところが、殆ど多いかもしれません。私は、最後の最後まで、こうすたみきって、しかもそれに、食塩を入れて、もうそれは、美味しい、美味しい、ほんなごて、あんまり美味しい、美味しいち言うもんだから、えっへえへ、それから私が、お箸と茶碗を自分で持たせます。それを自分でこう、食べてみよる。「こげーん、もうそげーん美味しゅうなか、あーたの言いなさるごと美味しゅうなか」だから、結局、私が美味しいと思う、有難いと思おうのと、愛子が美味しいと思うのと、有難いと思おうのとのは、思う段が違うろいう事なんです。そして、愛子がいう事は、お父さんは、喜び上手だとこういうのです。やはり、稽古なんです。何でも上手にならにゃいかんです。信心は、その喜び上手になる稽古なんです。ね。
今日の前講を、光昭が努めておりましたお話の中に、ね。己に勝つという事。例えば、日頃御教えを頂いておる、その御教えは、頭では分かっておるけれども、それを行ずるという事は、やはり、自分に勝たなければならない。自分に勝った時に、生まれてくるところの喜びというものは有難い。頭が痛かったけれども、なんかスキットしたと言ったような体験を話しておりましたですね。私は、信心の喜びというのは、それだと思うのです。ね。言うならば、先ほど、ただ、夫婦愛と言うても、性愛だけの夫婦愛であってはです、誰でも、いわば、有頂天になるほどになれれるんです。ね。それならば。けれどもです、それとは違った、反対にです、ね。の、反対の場合であっても、家内は主人を、主人は家内を信じ、信じきっていくという事はです。これは、やはり、二人の中に、相当の修行がなされてなければ出来ることじゃなかろうと、私は思うのです。ね。当たり前のことの中にです。もう、それこそ、甲の人は、千も万もの有難いものを感じ、当たり前のことの中に、この人は、当たり前と思うておるものじゃから、有難いも、なーんもない。どころか、まーだ、不平がある、不足がある。ね。これではおかげにならん。ね。私共が信心させて頂いてです、いよいよ、喜び上手にならなければいけん。それも、初めから上手はおりません。ね。初めから(おーせ?)はおりません。本当に、喜ばせていただく稽古を、本気でさせて頂かなければならん。一生懸命の勤労、そして、帰ってお風呂に入る。もう、それこそ、ほんとに極楽、ね。一日の疲れがもう、癒えてしまうほどしの有難さをお風呂の中で感じる。さあ、そこに、一本の、ほんなら晩酌なら晩酌が待っておる。それはもう、こよない、有難い美味しいものになってくるのです。ね。日頃は、ぶらぶらしといてから、さあ、晩時なってから、いっちょん、おなかの減らん。おなかの減らんはずたい、働かんのだから。そして、美味しいの、美味しくないのと、ね。いや、特別ほんなら、さあ、ふぐのチリ、ああ、こら美味しかち言うて食べるきん、ちゃんと腹の痛うなる。ふっふふふ、はっは、ね。ですから、いわゆる、信心での有難さというのは、修行を伴わずして有難いと言うておるならば、あなたのは、本なもんじゃないという事なんです。ね。修行を伴わずして有難いというのは、本なものではない。修行があってこそ、初めて生まれてくるところの、真に有難いというもの。そこに神愛、いわゆる、真の愛というものは、悟らせていただけるものである。今日、私が、皆さんに、本当に分かっていただきたいと思うところをです、ね。皆さんが、どういう角度で頂かれたか知れませんけれども、ね。初めに申しました、藤永道長の詩ではないですけれど、ね。この世をば、わが世とぞおもう、望月の、欠けたることもなしと思えばというて、喜びの涙にくれられるほどしのおかげを頂きたい。ね。私の心は、何時も欠けたことのない、満月のような、ね。そこにはです、私の権力ではない、金力ではない、人力ではない、神様のおかげで頂かせてもらっておる。神様のおかげで動いておる。ね。神様のおかげなればこそ、私の信心なりではありますけれども、その日、その日の、いわば、おかげが受けられておるという事は、なんと有難いことであろうかと。不安もなからなければ不平もない、不足もない。そういう生活が、段々育って行くという事を、一年勝り、代勝りのおかげが頂かれる元だ。今朝の御理解の中にも、ね。神の、いわば、機感に叶う氏子が少ないと仰せられる。神の機感に叶う、神の気心に叶うという事は、ね。神の大恩を悟らせて貰うて、ね。神恩報謝の生活が出来るという事。神の大恩が分かるという事。神の大恩が分かるから、一切の中に、有難い、有難いという、喜び上手の稽古が出来てくるところに、ね。この人は不平を言いよるのに、この人は有難涙をこぼして、有難い、有難いと言うておるようなおかげが受けられる稽古なんだ。ね。その、有難いものには、有難い花が咲く、有難い実が実るはずで、一年勝り、代勝り、ね。まめで、しかも、ね。身代も、人間も、達者もそろうて、おかげが頂いていけれるというのが、御道の信心である。ね。そういう、私は、御道の信心をです、本当に体得しなければいけない。参っております、拝んでおりますだけではいけない。本当に、一つ、喜び上手になるための稽古を本気でさせて頂かなければならない。私共が、例えば、信心をしておっても、ね。ただ、おかげ、おかげと言うてです。私が信心したから、私が働いたから、こういう沢山な、いわば、財産が出来たとか、こういう立派な家が出来たという、おかげであるならばです。「本当に私のごたる幸せなものはおりまっせん、もう、世界一幸せと思います」と、例えば、由、言うても、それを言えるほどしのおかげを頂いたときにはもう、すでに頂点であって、そこから必ず、衰微の一途をたどるより他にはない。私が働いて貯めたんだもん。おかげ、おかげといいながら、ね。本当に、神様から下さってあるもの、恵まれておる者、めぐまれて、今日があるのだというおかげ。恵まれるために、私が、神の機感に叶う氏子にならせて頂かなければならない。神の機感に叶う。これは、私は、今日、その御理解を説かして頂きながら、思ったんですけれどね。私が、あー、いよいよ、修行たけなわになる時分に、お取次ぎを頂いたことは、どうぞ、ね。金光大神の、例えば、信者の中でも、一番の忠義者にお取立て下さい、そういうお願いをして下さいという願いであったことです。一番の忠義者にお取立てくださいと、こう言うのである。ね。いうなら、私、今日皆さんに聞いていただ、朝、聞いてもらいましたようにです、ね。どうぞ、神も機感に叶う、神様のお心に叶う、神様に喜んでいただけるような信心をさせて下さいと言うて、願えというのである。ね。神様に喜んでいただく信心。神様の機感、気心に叶う信心。ね。ほんなら、そういう信心とはという事になってくる。ね。そこから、教えが、血になってくるのであり、肉になってくるのである。いつの間にか、ね。例えば、今日、私が頂いておる、ほんなら、ね。湯豆腐の汁をかけて、食塩かけたご飯が、もう本当に、美味しい、美味しい、有難い有難いで頂いておる。ほんなごつそげん、有難かつじゃろかと、やっぱ思うた、そばにおってから。ね。娘が。だから、ほんなごてそげん、美味しかですかち言うけん、「ちょいと食べてんの、美味しかばい。」ところが、そげん美味しゅうはないという事。ね。ところが、私のには、有難いと言うものがあるから、美味しゅうて、美味しゅうてたまらん。勿体のうして、勿体のうしてたまらない。ね。それを、美味しくいただけれる、健康という事が、有難いといったような、こもごものものが、私の有難い、美味しいの中には入っておる。なるほど、お父さんは喜び上手だと、こういうわけ。そこへです、ね。稽古の段が違うという事になるのです。稽古です。ね。しかもただ、無茶苦茶な稽古ではなくて、教えに基づいた稽古をさせて頂くうちにです、ね。藤原道長が詠うたと言われておるような、ね。思いが、自分の心のなかに、信心によって頂けた時。もう、それこそ、限りない、一年勝り、代勝りのおかげのいただける元が出来るのでございます。ね。だから、ここんところをね、信心があって、儲けだしたと。信心があっても、信心がなくても、儲けだしたと、ね。例えた言うなら。権力も出来たと、地位もできたと。ほんなら、信心があってもです、ね。なら、信心があっても、儲けだしもすら、やっぱりありますけれども、そういうのではなくてです。ね。自分の、我力を持って、おかげ頂いたのではなくてです。神様が下さらなければおかんという、そういうおかげ。ね。それを、例えば、んー、ね。人ながらと、神ながらという事になってまいります。ね。自分が一生懸命、いうならば、がまだしだしたと、言うのであっては、それで、幸せを、例えば、感じたのであっては、その幸せを感ずるころから、衰微の一途をたどることであり、ね。どこまでも限りなく、有難い、勿体ないと、有難い、勿体ないが頂かせてもらう。その有難い、勿体ないに伴うて来るところのおかげこそが、年勝り、代勝りになる。神の大恩を知ってからのおかげであるからであります。ね。今日は、そこんところを、私は、まあ、力説したつもりでございますけれども、ね。お互い、信心をさせていただきよってもです、ね。その、自分の信心を、もうひとつ掘り下げて見なければ、もうひとつ、あたって見なければ。自分の心に、果たして、神様に喜んでいただくような、神の機感に叶うような信心をさせて下さい、修行をさせて下さいと言う、祈りがあるや否やという事です。ね。ただ、おかげさえ頂けばよいというのであったら、ね。それは、神の機感に叶う、神様のお気に入りの氏子という事にはなってこない。ね。神様のお気に入りの氏子にならせて頂いての、おかげを頂いたならばです。ね。これは、一年勝り、代勝りのおかげの頂けれることになるのでございます。ね。そこんところをひとつ、今日は、皆さん、分かっていただきたいと思うのです。修行が伴わずして有難いというのは、それは、本な有難いのじゃないて。ね。修行が伴うて、有難いというのであって、初めて、真に有難いのだと。いよいよ、寒修行も、あと五日間で、えー、修行成就の御例祭という事になっております。ね。いろんな都合でお参りの出来ない方もあろう。参ろうと思いよるばってん、まあだ、布団のなかが恋しいという人もあろう。ですから、まあ、あと五日間なのですから、せめて五日間ぐらい、一つ、本気でです。寒修行に参加させていただいて、ね。その日、えー、平田会長が見えるそうですから、ね。お話でも、ゆっくり頂いて、寒修行の成就を願わせていただきたいと思うのでございます。どうぞ、よろしく。